とある空港でキレそうになった話

こんにちは!


なおとです。


現在、ナイロビからモロッコカサブランカ空港を経由してニューヨークへ渡っています。


8時間の長期フライトが2回あります。


是非ともその間のカサブランカ空港でのトランジット4時間を有効に使って体を休めたいところだったのですが、このカサブランカ空港ではイライラさせられ続けました。


ナイロビでのチェックインの際、カサブランカ空港からニューヨークまでの航空券はカサブランカ空港で取ってくれと言われました。


言われたとおり、トランジット専用手荷物検査の前にある航空会社のカウンターへ行きました。


本来ならパスポートを見せると、航空券を発行してくれて手荷物検査へと進みます。


しかし、アメリカにはVISAのようなESTAと呼ばれる渡航許可証が必要です。


それを見せろと言われたので、見せたのですが、なぜか浮かない顔の職員…


職員同士で何かを話し合った結果、少し待ってくれと言われました。


そこから数十分待っても何も反応がないので、もう一度聞いてみると、また同じようにESTAを見せろと言われ、見せたら分からなさそうな顔をして待ってくれと言われました。


そしてそこから数十分後、次は他の職員に呼ばれてそこへ行くもやはりESTAとパスポートを見て、結局待ってくれと言われる始末。


この時点で1時間半ほど待たされました。


またしばらくすると、少し雰囲気の違った職員が来て、またパスポートとESTAを見せました。


するとまたまた、待ってくれと言われました。


wait, wait, waitしか言われないこの状態に腹が立って、あと何分待てばいいんだと聞くと10分と言われました。


しかし、これまた30分が過ぎても何の連絡もありません。


堪忍袋の緒がきれた僕は先ほど対応した職員の元へ行き、いつになったら僕は手荷物検査へ行けるんだと聞くと、まさかの返答が…


「ボーディングパスを持って来い」


ふざけるなよ、ボーディングパスの発券を何度も待て待てと言われ、ついには自分には関係ないというような発言。


こいつでは埒があかないと思った僕は一番最初に僕を対応した人の元へ。


もう3時間以上も待っているが、いつになったら対応してくれるんだと聞くとここでもまさかの返答…


「私は知らないよ、私に責任はない。」


そう言って違う仕事を黙々とやり始めました。


もうダメだ、この空港職員にまともなやつはいないのか。


書類を見てもこれでよいのか判断できない、
分からなかったらとりあえず待てと言う、
そしてその後はほったらかし、
挙げ句の果てにはこちらが話しかけても知らんぷり、
法律がなければ殴っているところでした。


その後こいつらに話しかけても腹が立つだけだと思った僕は、航空会社カウンターの本部室みたいなところへ行きました。


そこで状況を伝えると、その方は親身に対応してくれすぐにボーディングパスを発券してくれました。


4時間以上あるはずのトランジットが既にゲートオープンの時間になっていました。


そして、その後も小さな苛立ちが畳み掛けてきました。


空港の過度に重複した手荷物検査、
乗客の順番抜かし、
水を買ってもお釣りが返ってこない、
水が残っているペットボトルを処分してくれと頼むとここで全て飲みきれと言われる、
そして何より飛行機内を含む空港職員の態度の悪さ…


入国もしていない国モロッコが大嫌いになりました。


どんな綺麗な町並みがあるのか知りませんが、一生行きたいとは思いません。


誠意の“せ”の字もない態度がどうしても許せませんでした。


以上、僕がキレそうになった&ストレス発散のための今回のブログでした。


お付き合いいただきありがとうございました。


9/25 記

働くについて改めて考えた

こんにちは!


なおとです。


突然ですが、みなさんは何のために働きますか?

 


1度見たことがあるのですが、改めて「LEADER2」というドラマを見てみました。


このドラマはトヨタ自動車をモデルにされた作品です。


戦前、欧州やアメリカなどの外車天国だった日本社会に国産自動車を普及させようと夢見る愛知佐一郎とそれを支える販売店の奮闘を描く熱い物語です。


当時、日本に国産車を走らせ一家に一台持つ時代が来ると語れば大笑いされ、そんなことはあり得ないと言われ続けました。


しかし、現在の日本ではトヨタを始めとする企業が国産車を作り、一家に一台が当たり前の時代になりました。


それどころか、これまで僕が訪れた全ての国で日本車が走っています。


日本車がこの世から消えれば、世界の自動車の八割はなくなるのではないかと思うほどに見渡す限り日本車です。


ドラマはフィクションではありますが、「国産自動車などあり得ない」と笑われた時代からたった70年ほどで世界の自動車は日本の自動車になりました。

 

 


僕はこのドラマを見て二つのことを思いました。

 


まずは働くということの捉え方です。


果てしない夢を達成するために、昼夜問わず働き、自分の時間はおろか結婚すらも成功するまではできないというシーンが描かれていました。


今の時代、こんな働き方は称賛されません。


確かに多くの人の犠牲(肉体的、精神的)があったと思います。


しかし、このような働き方なくして今の日本があったかと言われれば答えはNOだと思います。


日本が現在先進国になったこと、世界の至る所に日本の製品があることは“身を粉にして”働いたからこそあります。


そしてその当時の人が幸せでなかったかというと、本人ではないので分かりませんが、現在を生きる僕たちより幸せだったのではないかなと思います。


きっと働くということと夢を叶えることが同じだったからではないでしょうか?

 


もう一つは誰かを支えたいという想いです。

 

ドラマでは愛知佐一郎という人に惚れ込んだ社員や販売店の強い想いが描かれています。


何度も会社倒産の危機に直面する中で、愛知佐一郎を取り巻く人たちがそれを救います。


財政難による最大の危機を迎えたシーンで販売店同士で今後について話し合いをする場面があります。


自らも厳しい状況にあるにも関わらず、各販売店が出資をして会社を助けようという案に対して反対の声が上がるなか、一人がこのような発言をします。


「彼(愛知佐一郎)はこの国の50年先を照らすベッドライトだ。その明かりをこんなとこで消しちゃいけないんです。愛知佐一郎を殺しちゃいかん。」


ここまである人に対して強い想いが持てることに感動しました。


誰かを支えるために自ら犠牲になったり、大きな覚悟をすることは最近減ってきているのではないかなと思います。

 


今の日本があるのはここに書いた2つがあったからだと感じます。


笑われるような大きな夢を持って働いたこと、自分ではない誰かを必死になって支えたこと。


確かに時代は変わりました。


変えていかないといけないころは多々あると思いますが、僕が感じたような精神が日本を変えたことも事実だと思います。


働くことを考えたときに、賃金、労働時間、働きやすさ、やりがいをどうしても求めがちですが、

『自分の大きな夢、それがなければ大きな夢を追いかけている人を支える』

という視点があってもいいのじゃないかなと思います。


特に『誰かを支える』ということに関して僕は大きな可能性を感じています。

 

9/24 記

 

ハプニング4

こんにちは!


なおとです。


ルワンダでちょっとしたハプニングがありました。


実はルワンダはコーヒーで有名な国なのですが、首都キガリから車で3時間ほど離れたところにツアーを実施しているコーヒー農園があるので行ってきました。

 


朝の8時頃にゲストハウスを出発したのですが、その日の朝食でお腹の調子が悪いことに気付きました。


定期的にキリキリとお腹が痛みました。


下痢もしていましたが、耐えられないような痛みでもなかったので予定通りコーヒー農園があるフイエという街へ向かいました。


バスに乗っている間、何度か腹痛を感じるも降りたいと思うほどではありませんでした。


そしてコーヒー農園に着き、コーヒーツアーに参加しました。


天候も良く、腹痛も収まってたのですが…


歩き出して30分ほど過ぎると、突然の大雨が降り出しました。


普段ならすぐに止むはずみたいなのですが、その日は止む様子は一切なく、大雨の中でツアーを続けることになりました。


それとともに徐々に体調が悪くなり、コーヒーツアーの後半は集中力もなくなりガイドさんの英語をほとんど聞き取れなくなっていました。


ツアー終了後、若干吐き気がありました。


このまま帰れるだろうかと心配していたのですが、たまたま同じツアーに参加していた日本人の方がタクシーでキガリから来ていたので、帰りを乗せてもらえることになりました。


その後、その日本人の方と僕のためにコーヒー農園を案内してくださった青年海外協力隊の方と3人でビールを飲みに行くことになりました。


僕は体調が優れなかったので、ビールを飲むことを控えておきました。


しかし、徐々に体調は悪くなっていきました。


そしてキガリまでの3時間耐えられるのかという不安の中、タクシーに乗せてもらい帰りました。


タクシーに乗るや否や、吐き気に襲われそれから20分ほど我慢していたのですが、耐えきれず一度車を降ろしてもらいました。


マシになってまた車に乗り込んだのですが、やはりすぐに気持ち悪くなりました。


このままではダメだと思い、寝かせてもらいました。


キガリに到着したので起こしてもらったのですが、ゲストハウスの場所を伝えるために後半起きていた10分弱ですら、耐えるのがギリギリという状態でした。


なんとかゲストハウスに帰ることができましたが、その日本人の方に会っていなければ、僕はおそらくキガリへは戻ってこれなかったと思います。


翌日6:30に空港へ行かなければならなかったので、キガリへ戻れないことは飛行機に乗れないことです。


翌日空港までは少しマシになっていたのでタクシーを拾いケニアに向かうことができました。


本当に助けられました。


そのコーヒーツアーに僕だけが参加していたとすれば、きっとケニアに行くことはできなかったと思います。


感謝してもしきれません。
ありがとうございました。


日本から遠い異国の地で日本人の優しさが身にしみました。


9/25 記

 

なおと世界見聞録(ルワンダ編)

こんにちは!


なおとです。


ルワンダは“アフリカの奇跡”だと言われることがあります。


その理由は行けば分かります。
これまで行ってきたアフリカの他の国々とは一線を画しています。


ほとんどの方はルワンダと聞いて何も思いつかないのではないかなと思います。


強いて言うなら23年前の大虐殺、またはゴリラのイメージがあるのではないでしょうか?
僕もルワンダへ行くまではほとんど何も知りませんでした。


たった4日間の滞在だったのですが、本当に中身の濃い旅になりました。


それはひとえに青年海外協力隊の方にホームステイをさせていただいたり、ルワンダの話を詳しく聞くことができたからでした。

 


ルワンダにあるキガリ空港に着いて、街に出るとここは本当にアフリカかと思うような綺麗な街並みがあります。


ゴミはほとんど落ちていませんし、道路は舗装され、ここは表参道ではと思わせるようなオシャレな店がたくさんあります。


そして何より治安が良く、発展途上国に見られるような怖さがありませんでした。


とても23年前、国民の1~2割の方が虐殺された国だとは思えません。


なぜルワンダがこのような国になったのかというと、おそらく大統領の圧倒的なリーダーシップが主な理由だと思われます。


良い意味でアフリカにいることを忘れるようなルワンダでの生活。


僕はルワンダという国に魅力を感じました。
しかし、僕が見たものが全てではありませんでした。


青年海外協力隊の方と話をさせていただいて観光客や海外の役人には分からないルワンダの裏の部分を知りました。


確かに首都キガリは、アフリカのイメージとは全く違います。


さらに調べれば分かりますが、女性国会議員の割合は世界でもトップクラスに多いです。


しかし、一旦観光客が行かないような地方や裏路地に入ると電気、ガス、水道が通っていないということも往々にしてあるらしいのです。


女性の地位に関しても、地方ではまだまだ男尊女卑が根強く残っています。


言葉を選ばずに言えば、僕たちが見えるような表向きは良いように見せているが、見えない部分では追いついてきていないということです。


確かに大統領の独裁ともいえる数々の政策でルワンダは急激な成長を遂げています。


ただそれは決してルワンダという国の全てではありませんでした。


僕はこのことについて一概に良い悪いということはできないなと思っています。


実際、表向きの良さが功を奏して諸外国からの援助を受けることができたり、治安も良くなっています。


大統領に対する国民からの支持も絶大なものがありました。


しかしながら、やはり大統領がもし悪い方向に進んでいったときに止める手段がなかったり、地方は追いつけていない現状があるという点で難しさを感じました。


国作りとは本当に様々な方法があり、良い悪いの判断も簡単ではないなと思いました。

 


そんなルワンダですが、日本と似ている点がいくつかあり面白かったです。


ルワンダの人々の印象は『シャイ、ガツガツしていない、恥の感覚がある、親切』でした。


子どもたちは1対1で接するとシャイなのに大人数になるとその反動なのか、ものすごいパワーが返ってきます。


小学校へ行ったときはあまりのパワーに驚き、これまでにはない感動がありました。


これまで訪れた国は総じて日本よりガツガツしています。


タクシーや街中での勧誘があまりにもしつこく、嫌になることはよくありますが、ルワンダではNO!と一回言えば大抵引き下がります。


むしろ寂しさを感じるほどでした。


日本人の恥の感覚はなかなか外国人には理解されにくいですが、ルワンダの人々も同じような考えがあるのではないかと思います。


ぼったくりや盗みなどバレなければいいというような考え方が恥ずかしいと思っているような気がしました。


親切という点では、僕にとってちょうどいい具合での親切でした。


何か聞いたときに優しく教えてくれるのですが、その後必要以上に干渉してくることはありません。


相手のことを考えた親切が日本人の似ているなと感じました。

 


最後に、このたった4日間で合計13人の日本人に会いました。


話をした人数ではありませんが、至るところに日本人がいて、ついつい「こんなとこに日本人!」と呟きたくなりました。


ルワンダはアフリカには行きたいけど、少し怖いなと思っている人には是非オススメしたい国でした。


9/25 記

キガリ虐殺記念館へ行ってきた

こんにちは!


なおとです。

 

今日はキガリにある虐殺記念館へ行ってきました。


大雨の中、モト(バイクタクシー)に乗りずぶ濡れで到着しました。


その影響かそれとも虐殺記念館に展示品のむごさか、ゲストハウスへ帰りは体調が少し悪くなりました。

今は全く問題ありませんが…


これまで僕は広島や長崎の原爆資料館、沖縄のひめゆりの塔靖国神社遊就館カンボジアのキリングフィールドなど戦争や虐殺の悲惨さを残す場所へ訪れました。


そのどれもが衝撃的で言葉を失いました。

 


今回のルワンダキガリにある虐殺記念館も強い衝撃を受け、写真を撮ったり、あるところに近寄ることを体が拒否しました。


ルワンダの大虐殺はたった23年前のことです。


総人口の10~20%の方が亡くなりました。
詳しいことについてはここでは書きませんが、虐殺するか、されるかという二つの選択しかなかったと言います。


つまり、政府や過激派による虐殺だけではなく、住民間でも殺し合いがありました。


友達や知り合いを殺さなければ、自分が殺される、そんな状況を想像できますか?


最新の兵器によってではなく、自分の身の周りにあるもので人を殺すということが僕にはリアルに感じられて辛かったです。


負の遺産というべきかどうか分かりませんが、このような場所を訪れたとき、僕たちはこの事実を忘れてはいけない、風化させてはいけないと話します。


ただ人は平和な毎日を送る上で必ずこの気持ちは薄れていきます。


だから僕はそこからもう一歩踏み込んだ具体的な行動が必要なのではないかと思います。


例えば、平和教育や経済不況を防ぐための政策、民族対立の根本的な解決などなど簡単ではないですが、現実的な行動が重要だと思います。


悲惨な歴史を繰り返さないために僕たちができることはまだまだあるはずです。


9/19 記

 

なおと世界見聞録(タンザニア編)

こんにちは!


なおとです。


後で書こうと思っているとだんだん面倒くさくなってしまいますね。


さて、今回はアフリカのタンザニアについて僕の感じたことを書いていこうと思います。

 


タンザニアには2週間滞在していたのですが、何度子どもたちに手を振って挨拶をしたか分かりません。


ただ道を歩いているだけで子どもたちが話しかけてきます。


人見知りなど一切することなく、笑顔で手を振りながら話しかけてきます。


初めはチヤホヤされ嬉しかった僕ですが、日本とは違いそもそもの子どもの数が多いこと、異常にしつこいことの2つで正直だるいなと思ってしまうこともありました。


目が輝いていてかわいいとはいつも思うのですが、やはり終始付きまとわれると疲れてしまいます。


タンザニア最大の印象がこれです。

 

子どもたちの数と元気が桁違いでした。

 


続いて、サファリについて書いていきます。


首都ダルエスサラームから車で約6.7時間のところにあるミクミ国立公園へと行ってきました。
一泊二日で260ドルでした。


一日目はサファリだけではなく、マサイ族の村を訪れたり、満天の星空の元キャンプをしました。


ちなみにここで見た星空は人生でもっとも綺麗な夜空でした。


二日目の午前がいよいよサファリ散策でした。
僕たちの車には日本人が6人。


もう何を気にせず、スピーカーでノリのいい曲をかけて歌って騒ぎながらサファリを廻りました。


大自然の中、軽快な音楽とともに野生の動物たちを探す数時間が僕にとっては本当に素晴らしい時間でした。

 


サファリではエジプトの砂漠と同様、自分は人が作った遺跡より自然の壮大さを目の当たりにしたときに感動するのだと気付きました。


そしてこの時代、世界の絶景と言われるものはスマホ一つで見ることができます。


それも最高の状況のときに一眼レフを使い加工までした写真です。


これまで実際に見てがっかりしたことは何度もあります。


しかし、砂漠とサファリだけは一枚の写真に収まりきらない雄大な光景が広がっていました。


心を揺さぶられる自然の大きさに魅力されました。

 


最後に、ご飯や人について少し述べていきます。


ご飯はホームステイ先(タンザニアではおそらく裕福な家庭)で毎回ご馳走になっていたのですが、米がほぼ毎日出てきました。


そして必ずワンプレートです。
一つのお皿に米とおかずをよそって食べます。


見た目は正直微妙なのですが、味は想像以上に美味しく、食に関しては全く問題がありませんでした。


フルーツも豊富に採れるみたいで、ほぼ毎食出ましたが、季節の関係で僕があまり好きではないスイカが多かったです。


12月頃(夏)に行くとマンゴーやパインアップルが食べられるらしいです。

 


人の印象は男性はかわいい一方で、女性は怖かったです。


男性は何が起こっても“no problem”精神で常に笑顔を絶やさない人が多かったように思います。


女性は怒っていなくても、怒っているように見えることが多く、僕は結構ビビってました。


総じて大らかな人が多く、自分の意志はしっかり持つがヨーロッパの人ほどそれを押し通そうとする強引さはないように思いました。

 


アフリカ最高峰の山『キリマンジャロ』、

アフリカのハワイ『ザンジバル』、

アフリカ最大級のサファリ『セレンゲティ国立公園』

には今回行くことができなかったのでまたリベンジしたいと思います。


タンザニアは僕の好きな国の一つになりました。


9/24 記

ワークキャンプ(タンザニア編)

こんにちは!


なおとです。


中耳炎のため8月に参加するはずであったタンザニアワークキャンプに参加できず、再チャレンジとして9月3日から二週間タンザニアワークキャンプに参加しました。


結論から言うと、あっという間に二週間が終わり、本当に参加して良かったなと思います。

 


メンバーは現地のタンザニア人のリーダーとフランス人1人、そして日本人が6人という国際色が弱めのワークキャンプでした。


主なワークキャンプ内容としては、毎日午前中に幼稚園へ行って先生のサポートをしました。


僕はもう一人の日本人とともに2.3歳の子どもたちのクラスで先生のサポートをしましたが、これが結構辛かったです。


大きく2つに分けて書いていこうと思います。

 


まず一つ目は、異国の地で現地の言葉も分からない中で、さらに2.3歳の子どもたちに対して僕にできることが見つけられませんでした。


英語は普段から少しずつ教わり、数字の勉強もしている。


そしてこれまでにも日本人のボランティアがたくさん来ているという状況の中で、僕だからできることは見つけられず、先生のサポートをしているだけになってしまいました。


日本では2.3歳を預かる保育園や幼稚園の先生は何を考え、子どもたちにはどういう思いを持って接しているのか気になりました。


そして、話ができる年代になるまでの子どもたちへの教育の難しさを痛感しました。

 


二つ目は、体罰についてです。


僕が訪れた幼稚園では一日に何度か先生が木の枝で子どもたちを叩いている場面を見かけました。


木の枝が子どもの身体に当たりパシンッという音や、その後聞こえてくる子どもたちの泣き声を聞くと胸が締め付けられました。


確かに子どもたちが言うことを聞かない、悪いことをするときに叩かれるのですが、日本では見られない光景なので少ししんどかったです。


しかし、その先生が教室からいなくなると教室内の秩序が乱れたり、叩かれることによって子どもたちに良い変化があることもありました。


体罰(限度がある)が絶対悪だとは思わない自分も確かにいました。


日本人メンバー内でも日本の現状と照らし合わせて何が良くて悪いかと話し合いました。


人それぞれの価値観で大きく意見が分かれるところだなと感じています。

 


他にも、
米のとぎ汁に砂糖をいれたような飲み物を飲んだり、
2.3歳ながら英語を話し始めてる子が大勢いたり、
何十回教えても“2”が書けない子がいたり、
寝るときはなぜかうつ伏せと決まっていたり
と少し面白い経験をすることができました。

 

日本人が多く、日本語ばかりを話してしまいフランス人と揉めてしまうこともありました。


それでも夜にカルチャーナイトといってお互いの文化を紹介する日などがあり、クイズやダンス、歌などで盛り上がりました。


ちなみに“PPAP”がバカみたいにウケました。

 


キャンプリーダーはとても優しく、責任感が強く、おもしろくて本当に恵まれました。


僕たちが喧嘩したときは仲裁に入ってくれたり、あらゆる場面で盛り上げてくれました。


日本のことも好きだと言ってくれ、僕たちが教えた日本語や文化をすぐに覚えてたくさん使って楽しませてくれました。


もう一度キャンプリーダーに会いたいと強く思います。


二週間のワークキャンプですが、とても濃くて書ききれないほどたくさんのことがありました。


最後に、僕たちを暖かく迎えてくれたホームファミリーなどの現地の人たち、僕たちを安全に楽しませてくれたキャンプリーダー、そしてワークキャンプメンバーに感謝したいです。


ありがとうございました。

 

9/16 記