僕のこれまでにも意味がある

こんにちは!


なおとです。


以前僕はこのブログで、経験をいかに抽象化するかということについて書いたことがあります。

http://natoto17.hatenadiary.com/entry/2017/06/12/140819

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」
この言葉は今も僕の中にあり続けていますが、では経験に意味はあるのでしょうか?

 

 

世界一周を始める前に、ゼミの先生からこんなことを言われました。

 

「学生時代、色んな国に行ってたくさんのものを見て触れたけれど、大した意味はなかった。それよりもコツコツと重ねてきた読書の方がはるかに大きな意味があった。海外に行くためには何十万、何百万というお金がかかるにもかかわらず、数百円程度で手に入る本の方が価値があった。」

 

まさしく、先生の言葉は経験からではなく、歴史から多くのことを学んでいるが故のものだと思います。


僕はある面では正しく、一方では間違っているのではないかと思っていました。

 

 

例えば…
アメリカは貧富の差が激しかった。
ドイツは有給休暇取得率が高い。
エジプトのスフィンクスは意外と小さい。
ケニアの首都ではビルが建ち並んでいる。


このような情報に対して、その国に行ったから"こそ"分かったというのはバカなんじゃないかと思います。


この時代に生きていれば、このような情報は簡単に手に入ります。


僕自身エジプトに行ったからこそ、スフィンクスの小ささを実感しました。


しかし、行かなければ分からなかったことではありません。


僕が気になって調べさえすれば、わざわざ暑い中、足を運ばなくても知ることができました。

 

 

また、その国で出会った数人と話したことをその国の総意のように捉えることもバカです。


サンフランシスコでトランプについて質問しても大抵は否定的な意見です。


国土が広く、人種も様々であるアメリカという国で大枠の意見をまとめるのは旅行者ができる代物ではありません。


そんなときは自分の脚で得たものより、それについて書かれた本や新聞などを洗いざらい読んだ方が圧倒的に正確で安く済みます。

 

 

ここまでの僕の理論上では、数ヶ月をかけて世界を廻っていることには意味がありません。


なぜなら自分の脚で世界を廻らなくても、世界のことは知ることができるからです。


むしろ実際に聞いた話より、本や新聞を使えばより広く深く知りえることが可能です。

 

 

では経験は何のためにするのかを考えました。


僕の答えは感じるためです。

 

本や新聞などでは知識を得ることはできますが、肌で感じることができません。
これは意外と大きな差です。

 

人は知識を得たときではなく、何かを感じたときに考えや行動が変わりやすいのではないでしょうか?


幸せになる方法を本で読んだ時ではなく、劣悪な環境にあっても幸せそうに生きている人たちを見て、幸せはこのような環境にもあるんだと感じたときに自分の中での幸せの定義が変化します。


シリコンバレーで活躍するための本を読んだ時ではなく、実際にシリコンバレーへ足を運んで先進技術を目の当たりにしたとき、さらに活躍する人の話を聞いたときに、レベルの違いやどんでもない情熱を感じ取って今後の行動が変化します。

 

経験から学ぶのではなく、経験から感じるのです。


僕は何かを経験したときに、目に見える成果が必要だと思っていました。


しかし、経験から感じるということに重きを置けば、目に見える成果が必ずしも必要ではありません。


むしろその場にいたこと、空気感を味わえたことの方が大切で、その“感じ”をいかに今後の言動へ繋げていくかが大切なのではないでしょうか?


目に見える成果は歴史から学べばいいのではないでしょうか?

 

『賢者は歴史から学び、経験から感じる。』
『愚者は歴史を顧みず、経験から学ぶ。』

 

12/8 記