幸せな国ブータン

こんにちは!

なおとです。

現在スリランカからクアラルンプールを経由してバンコクに来ています。
そして明朝、バンコクからブータンへ飛び立ちます。

ブータンに行ったことあるという方はそれほど多くないのではないかなと思います。
しかし興味があるという人は多いはずです。

それはなぜか?

数年前にブータン国王が来日し、GNH(国民総幸福量) という考え方が多くの日本人に知られたからです。

僕もその1人で世界一周するプランにブータンを入れようと思っていました。

しかし、ブータンに行きたいと思って調べた方はご存知だと思いますが、ブータンという国は簡単に行くことができません。
なぜなら個人的に行くことができません。
旅行会社を介してのみブータンを訪れることができます。
さらに公定料金というものをブータン政府に払わなければならず、1泊200ドルもするのです。

僕が調べたところ、日本からのツアーを組むと30万円ほどかかってしまいます。
これを見たときに僕はブータンに行くことを諦めました。

しかし、知人にブータンに行ったことがあるという方を紹介していただき、現地のガイドと連絡を取ることができました。
少しだけ安く費用を抑えることができました。

僕の世界一周の中で最もリッチな旅になることは間違いありませんが…
そんなわけでこれからブータンに向かいます。


ブータンに関する僕の疑問が3つあります。


1つ目はブータン人が考える幸せと日本人が考える幸せにどのような違いがあるのかです。

同じ日本人の中でも人によって幸せの形は違いますが、GDP(国内総生産)よりもGNHを提唱するブータンでは何を持って幸せを感じるのか気になっています。


2つ目は数年前にブータンが世界一幸せな国として取り上げられましたが、昨年は8位でした。

ちなみに1位はデンマークでした。
日本は90位でした。

2005年の国勢調査では国民の97%が幸せだと答えたそうですが、それ以来少しずつその割合が減ってきていると聞きました。
若者の失業率など雇用問題が大きく影響しているというニュースを見ましたが、他にも理由があるのか気になっています。


3つ目はGDPとGNHとの関係です。
これに一番興味があります。

僕は経済学のマクロ経済学のゼミに入っています。
マクロ経済学とは一国の経済活動を分析する学問です。
経済成長や景気循環について学んでいます。

2016年度のデータでは
日本の経済成長率は1.2%
ブータンの経済成長率は5.2%です。
自分は今成長しているなと感じるのときに幸せだなと思うのと同様に、国も経済成長率が高ければ国民も幸福度も上がっていきます。
経済成長率やGDPを無視してGNHについて語るのは本質的な議論ができないと思います。

だからこそブータンの人々は経済についてどう考えているのか聞いてきたいと思います。
現在多くの国では経済成長が最優先されるなか、経済成長ではなく、幸福というものにこだわるブータンが気になっています。

費用の関係上、短い滞在期間でありツアーなのでどこまでブータンのことを知ることができるか分かりませんが、しっかり自分の目でみてきたいなと思います。

最後にブータンに関してもう一つ。

タイのバンコクからブータンのパロ空港へ飛行機で移動するのですが、このパロ空港が世界一なのです。

何が世界一なのかというと、離着陸の難しさです。

空港の周りは世界でも有数の高い山脈に囲まれ、滑走路が他の空港に比べて短いらしいです。
パロ空港に離着陸できるパイロットは世界でも10数人しかいないという噂もあります。

正直、少しびびってます。

僕が無事ブータンに着陸、そして離陸後できることを祈っていただけると嬉しいです。

6/28 記

俺にはできない

こんにちは!


なおとです。

 

『俺(私)にはできない』

 

って思うことってよくありませんか?


毎日生きていると、意識せずにこう感じることってたくさんあると思います。


大谷翔平が軽々ライトスタンドに特大ホームランを放ったとき
・圧倒的な歌唱力とパフォーマンスで観客を魅了する東方神起のLIVEに行ったとき
・英語はおろか3.4ヶ国語を流暢に話すトリリンガルの人に出会ったとき
・自分はいくら説明されても理解できない数学の問題を平然とした顔で解いていく友達を見たとき
・ダイエットと言って目の前にある自分の好きな食べ物を腹を空かせながらも我慢する人がいるとき


小さなことから大きなことまで『俺にはできない』と思うことは本当にたくさんあります。


僕はこの『俺にはできない』と思ったときの気持ちについて考えてみました。


純粋に僕の能力が足りていないからという理由で『俺にはできない』と思うことはいったいどれくらいあるのでしょうか?
きっとそれほど多くはないのではないなと思います。


憧れ、悔しさ、恥ずかしさ、強がり、諦め、嫌悪感、苦しみ、哀れみなどの気持ちが奥に隠されていることが大半なのではないかなと思います。
他人にはもちろん、自分自身の中でもこの感情を隠して自己肯定しようとするが故に、この事実に気付きにくいのかもしれません。


このような経験はありませんか?


自分が好きな異性がいますが、なかなか話しかけることができずに仲良くなれません。
しかし自分の親友は自然に自分の好きな異性と会話をしています。
お互い特に気を使うこともなく、名前で呼び合ったりしています。
こんなとき、同じように名前でその人のことを呼べるかと言われると『俺(私)にはできない』と思ってしまいます。


ここには能力的な問題は一切関係ないと思います。


その人への恥ずかしさがあったり、親友への憧れや嫌悪感があったり、自分自身への強がりや諦めがあったりします。


自分自身の弱さ、他人の良さなどに改めて気付くことができます。


本当に純粋にそう思ったのか、
自分を正当化しようとしているのか、
友達がただ羨ましいだけなのか、
挑戦することを避けて負けないようにしているのか、
前に出ることを恐れて目立たないようにしているのか、
徐々に分かってくると思います。


例をあげればキリがありませんが、『俺(私)にはできない』と思ったことを冷静に分析すると自分が自分自身で隠していたことが分かるかもしれません。


ふとこの考えが浮かんできたとき、少し立ち止まってなぜ『俺(私)にはできない』と思ったのか考えてみてください。


きっと、新しい自分に考えに出会えると思います。

 

6/28 記

ワークキャンプ(スリランカ編)

こんにちは!


なおとです。


スリランカでは二週間ワークキャンプをしていました。


空港を朝の8時頃に出て、バスの乗り換えなどもあり、ボランティアをさせてもらう村に着いたのは午後5時頃でした。
良くも悪くもスリランカに来た実感のない場所でした。


今回のワークキャンプメンバーは前回とは違い、しっかり各国から集まった8名の国際ボランティアらしいものでした。
ヨーロッパとアジアだけだったのですが、これまであまり外国人と関わっていなかった僕にとっては新鮮な環境でした。


ワークキャンプの内容を簡単に説明すると、村の方々の農業者をお手伝いすることがメインでした。
日本なら機械でやってしまうような基礎的なことや虫嫌いな僕ですがいちいち気にしていられないほどの虫達に触れるなど僕にとっては新しい経験でした。

 


僕はこのメンバーと生活する上で2つの苦しさを感じていました。


1つ目は、やはり言語の壁です。

 

飛び交う英語の会話に全く理解できずにおいていかれることこともしばしばありました。
1対1での会話では分からなかったその都度、聞き返すことはできるのですが、大勢で会話が始まると、スピードにも内容にもついていくことができず苦痛な時間でした。
酷い英語力というのは前々から分かっていましたが、改めて現実を突きつけられた日々でした。


2つ目は価値観の違いです。

 

ヨーロッパのメンバー達は好奇心が旺盛でした。
何をするにしてもバンバン質問が飛び交い、全ての話に興味深々といった様子でした。
休暇日に観光をしていても、あれもこれも行きたいと言い、早朝から夜遅くまで観光しました。
これに腹が立つことが何度かありました。
好奇心が旺盛なことは素晴らしいことだと思うのですが、悪く言えば自分中心の考え方なんだと思いました。
自分の行きたいこと、やりたいことを最優先するのですが、おそらく悪気もなければこれが当たり前なのだと思いますが、空気を読んだ言動をして欲しかったです。


この言動と価値観という多くの人がぶち当たる壁にぶつかって、国際ボランティアらしかったなと思いました。


そんなワークキャンプでしたが、楽しい面もありました。


何より僕が末っ子だということもあり、たくさん可愛がってもらえました。


そして僕のメンバー間での立ち位置が日本で仲の良い友達と一緒にいるときと同じような場所でした。


相手が誰であろうが、自分の心地の良い立ち位置、楽だと思える立ち位置は変わらないんだなと思いました。
初対面で特に国際も違えば、気を使ったり自分の性格を押し殺してしまいがちですが、自分の心地の良い立ち位置につけるように仲良くなっていくことが大切だなと感じました。


今後どの環境にいても、このことを忘れずに自分の居場所を探していきたいです。


この二週間のワークキャンプはあっという間に終わりました。


前回のミャンマーワークキャンプに比べてやることが多かったり、メンバーが多く暇を持て余すことが少なかったからかなと思います。


人は朝、目覚めたときにやるべきことがあり、それを誰かと共有できることで充実した日々を送ることができるのだと思います。

 

6/27 記

 

小さな心と大きな心

こんにちは!

 

なおとです。

 

先日、スリランカでもっとも有名な観光地だと思われる世界遺産シギリアロック”に行ってきました。

 

名前を知らなくても、写真を見れば「あぁーなんか知ってるわ」となると思います。

 

そのシギリアロックを見た僕の感想は…

 

 

『でっかい岩だなぁ。どうやってこんな岩ができたんだろう。日本にはないなぁ。海外に来た実感がする。』

 

このような感想を持ちました。

 

正直に言うと、シギリアロックを見た瞬間、写真で見たそれと同じだなと思いました。

 

確かに圧倒されるような大きさ、自然に囲まれた中にそびえ立つ壮大さなどは外国ならではの風景かもしれません。

 

しかし、遙々異国から30ドルも払ってまで、全ての人におすすめするかというと、僕はしません。

 

昨年はカンボジアアンコールワット、インドのタージマハルを見ました。

 

Googleの画像検索で見たそれの遙か上をいくことはありませんでした。

だいたい画像を見て予想していた通りでした。

 

僕は何かを見て感動しにくいのかもしれません。

 

「多くの人が興奮して大げさな表現をしているのか、それとも僕がただ冷めているだけなのか…」

 

シギリアロックを前にしてこのようなことを考えていました。

そして一つの考えが頭に浮かんできました。

 

別に日々生きていて全く心を揺さぶれるようなことがないわけではありません。

 

小さな感動はたくさんあります。

 

 

夕日が綺麗だなと思い、電車の窓からずっと眺めて幸せな気分になる。

吉野家の牛すき鍋膳が値段以上に美味しく感じられて幸せな気分になる。

友だちに内面や外見のことをお世辞にでも褒められると嬉しくなって幸せな気分なる。

決して目立ちはしないありふれた桜の木に心を揺さぶられ幸せな気分になる。

 

 

大きなことをすれば大きな感動を、

有名なところに行けば大きな感動を、

評判のいいものを食べれば大きな感動を、

と思いがちになってしまいがちですが、

 

 

自分の近くにあるありふれたものの中にたくさん感動が散りばめられているんだと思います。

 

他の人にとっては何とも思わない極々一般的で、何の取り柄もないものも見る人によってかけがえのないものや時間になるものです。

 

今後、世界一周をする上でたくさんの観光地や世界遺産を見ることなると思います。

 

 

もちろん、僕の心を揺さぶれるようなものに出会えれば幸せだなと思いますが、

それよりも、他人から見れば違いも分からないような小さなところに自分の感動や幸せを見つけていければいいなと思います。

 

6/25 記

 

 

 

 

死ぬことが怖い

こんにちは!


なおとです。


タイトルを見ると僕がとても病んでいるのではと思われるかもしれませんが、そういう意味ではありません。


みなさんは死ぬことが怖いですか?


僕は怖いです。


小学五年生の頃には、寝ようとベッドに入った途端、死について考えてしまい怖くなり寝れない日々がありました。


何が怖いのと聞かれると説明するのが難しいですが

『記憶がなくなること、僕の存在がこの世になくなること、まだやり残したことがたくさあること』

などが浮かんできます。

 


なぜ今回この話題について書こうと思ったかというと、ワークキャンプ先のリーダーとこの話をしたからです。

 

そのリーダーは死ぬことが怖くないそうです。


確かに年齢は50に近く、僕より様々な経験をたくさんしていますし、やり残したことが僕に比べれば少ないかもしれません。


それにしても死が怖くないというのは驚きです。
今すぐに死ぬとしても怖くないのかと聞くと、それも怖くないとのことです。


理由はその人の考え方にあります。


大きな理由は仏教を信仰していることにあると思います。


仏教のことはこれまでにたくさん勉強して、神様も信じ続けてきた。そして人のために善い行いをして、悪いことはほとんどしていない。思いつくのはゴキブリを殺したことくらいだ。なので、もし僕が死んでも来世は必ず良い環境に生まれることができる。今ある記憶も忘れることはない。」
このように話してくれました。


僕はとても驚きました。


彼は決して口だけで言っているのではありません。


今日は少しの間、自由時間がありました。


彼に何をするのかと聞くと、池にいる鯉に餌をやると答えました。
この池がある都市に来る度にパンを買って鯉に餌をやっているそうです。


そしてその餌をやっているときに発展途上国でよく見かける物乞いをしている人が彼に話しかけました。
すると彼は何の躊躇もなく、幾ばくのお金を差し出しました。


さらに、その数分後彼の元にお腹が空いたと言ってきた男性がいました。
バスの時間も迫っており時間のない中、彼は走って弁当を買いに行きその男性に渡しました。


物乞いをしている人に対して、どういう対応すべきかという議論はここでは置いておき、僕は彼の行動に圧倒されました。


彼の行動は全く見返りを求めないものです。
これが彼の言う善い行いなのだと思いました。


彼はこのようにも言ってました。
「何かを貸したり、あげたりしたときに決して何かが返ってくることを期待してはいけない。」


彼の断固とした死ぬことへの怖れのなさは徹底した自分との向き合いがあるのだと思いました。


もちろん、彼は仏教を信仰していますので、神様を信じて向き合っています。


しかし、僕はその中には自分との向き合いもあり、それを続けてきたからこそ、今の彼の考え方があるのだなと思いました。


“死”という多くの人が怖れるものに対して、本当の意味で向き合えているからこそ怖さを感じないのかもしれません。

 


“死”を考えることは“今”を生きることであり、“自分”に向き合うことだなと思いました。

 


いつか尽き果てるこの命を大切にしたいと強く思います。

 

6/20 記

 

何から学ぶ

こんにちは!


なおとです。


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」
オットービスマルクの有名な言葉です。


ビスマルクは「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。」と言ったのですが、時代の経て短くなったようです。


僕は大学に入ってばかりの頃はあらゆる経験こそが大切だと思い、知識を入れることを嫌がっていました。


単純に経験の方が楽しく、その経験をすることで充実感や達成感のようなものを手にすることができます。


一方、歴史から学ぶ(知識をいれていく)ことは地味で面白味がなく、すぐに役にたつことはほぼありません。


しかし、大学二年生になり読書をする量が増えたときにこう思いました。


「知識もないのに、自分の経験だけで考えたり、行動したり、はんだんすることは危険だ」


さらに、大学一年生の一年間を振り返ったとき経験から学ぶこともたくさんありましたが、薄いなと思うことがありました。


もう少し具体的にいうと、ある経験直後に感じた学びの大きさとしばらく時が経ってから振り返ってみたときの学びの大きさに違いがありました。


皆さんも感じることがあると思うのですが、
先生や先輩の話を聞いたり、講演会に行った帰り道ではすごく感銘を受けて『とても良い話が聞けた』と思っているのに、一ヶ月後にはほとんど忘れてしまっている。


僕はよくあります。
そうならないように毎日、日記を付けているのですが…


一方、読書をするようになって、自分自身のすぐには忘れない学びが増えたよう思います。


ご存知の通り、本にはたくさんの人の成功例と失敗例がたくさん載っています。


本来ならば会えないような自分からは遠い人、全く自分と違った価値観を持つ人など自分の足では辿り着けないところに行くことができます。


読書の最大のメリットはここにあると思います。


続いて、経験に頼りすぎて起こってしまうデメリットを2つ書いていきます。


一つ目は、非効率だということです。


自分で言うのもなのですが、僕の世界一周見聞録にはそれほど価値はありません。


僕が海外で見たこと、感じたことは既に誰かが発信してます。
インターネットのおかげで一般の人でも情報を発進できるようになった今、世界一周したところで新しい情報なんてほぼ見つかりません。


僕の世界一周見聞録はたくさん感じることがある中でも僕が何を感じたかを書いているだけのものです。


情報を得るなら自分の足で世界一周せずとも、ネットや本で充分ですし、そちらの方がプロが書いたものもあるので深い情報が得られます。


このように経験から全てのことを学ぼうとするのはあまりにも非効率です。


二つ目は経験は人を感情的にするということです。


本などを用いて歴史や知識を学ぶのに対して、経験から何かを得ると冷静な判断がしにくくなります。


例えば、ある国に数日間だけ行っただけでその国のことを分かった気になったりします。


“貧富の差が激しい、街の成長が著しい、この地域の特産品はこれだ”など確かにあっている場合もありますが、季節や地域によっても違いますし、現地の人から聞いたといっても聞く人によって言うことが違うのはよくあることです。


自分の経験だけで物事を考えて、判断してしまうことは非常に危険です。


特に法律や文化、宗教などについて勉強することなく、自分の経験だけで善悪を判断するのは恐ろしい事態を招きかねません。
長い歴史があり、その時々で変化もしてきたものにはそれなりの理由があるのです。


とても良い経験をするとどうしても舞い上がってしまいがちですが、冷静になって考えてみることが大切だと思います。


ここまで経験に対してネガティブなことを書いてきましたが、もちろん経験が無駄だと思っているわけではありません。


ただ特に学生の間は派手な経験に対して、地味な知識を疎かにしてしまいがちになる傾向があると思います。

 

僕は何も意識せず過ごしていると経験の方へ逃げてしまうので、知識の方が大切なんだというくらいの心持ちで日々を過ごしています。

 

6/19 記

男女差別をなくすために

こんにちは!


なおとです。


今回は男女差別について書こうと思います。


男女差別を減らす、なくすためにどうすればいいのか僕の考えを紹介します。

 


端的にいうと、男女差別をなくすためには男女差別を主張しないことだと思います。 

 


詳しく説明していくと、現在の日本では憲法や法律、会社や学校でのルールの中で明らかに男女差別を示すような文言は少ないです。


男女差別の多くは決められたルール上ではなく、実社会において結果的に差別状態にあります。

 


例えば夫婦別姓の問題です。


法律上ではあるカップルが婚姻した場合、どちらかの姓を選ぶ必要があります。


しかし、現在の日本では95%以上のカップルが男性の姓を選んでいます。
ここに男女の差があるのは明らかです。


これに対して夫婦別姓という解決手段があります。
夫婦別姓の実現に対してたくさんの声が挙げられるなか、未だに実現していません。


一つ大きな理由として、この夫婦別姓の問題を男女差別として捉えていることがあげられると思います。


夫婦別姓を認めない側からすると、法律上どちらの姓を選んでもいいといっているのに対して、自分たちの意志で男性の姓を選んでいるだけで強制はしていないと反論することができます。


時代の流れとともに法律なども変えられていきますが、やはり法律を変えるには実情を訴えるだけではなく理論が必要です。


夫婦別姓を実現するためには、男女差別を持ち出すのではなく、婚姻届を出したカップルと事実婚にあるカップルとの不平等を訴えた方が、理論的には反論が難しいと思います。


姓は法律上どちらを選んでもいい自由があるのに対して、自分の意志で選んでいるじゃないかと反論されてしまいますが、婚姻の自由がある中で事実婚を選んだ際に婚姻届を出したカップルとの間に格差が生まれこれるのでおかしいとした方が良いと僕は思います。


憲法や法律は感情によって動かされるものでも、動かされるべきものでもありません。


ゆえにこの場合は男女差別とは違った視点で訴えることが重要だと考えます。


このように男女差別を是正するために男女差別を持ち出さないという考え方は一つ大切な見方だと思います。

 


もう一つ男女差別という言葉を持ち出さない方がいいと思う点があります。


それは今この日本社会は男社会だからです。


残念ながらこれは紛れもない事実だと思います。


各界のトップに立つ人物は男性であることが多く、その人が何事にも強い決定権を持っています。


そんな男性に対して、ここは男女差別だからルールや考え方を変えてくれと言っても積極的になってくれる可能性はそれほど高くないと思います。


男社会で勝ち上がってきた人にとっては男社会のままの方が生きやすいはずです。


ここでも男女差別を訴えるのではなく、ある女性を登用することへのメリットや男性だけで物事を進めていくデメリットを論理的に伝えていくべきだと思います。


世の中にある男女差別に目をつけてそれを是正しようとすると、どうしても感情的になりやすくなります。


しかし、何かを変えるとき、特に法律や昔からあるルールを変えるときには感情よりも理論が必要になります。


そのルールがあるのには理由があり、これまでそのルールの中でやってきているのです。
それに立ち向かうには、おかしいと思う点を的確に指摘し、論理的に説明することが大切です。

 


男女差別をなくすために、男女差別という概念から一度離れて考えてみるという見方をみなさんはどう思いますか?

 

6/15 記