なおと世界見聞録(スリランカ編)

こんにちは!


なおとです。


スリランカには3週間の滞在とこれまでで一番長い滞在になりました。


正直に言うと、スリランカに来るまでスリランカのことはほとんど何も知りませんでした。
スリランカの位置もあやふやで、世界遺産シギリアロックのことも知りませんでした。


そんな僕にとっては遠い存在であったスリランカですが、大好きな国の1つになりました。

 

インドと似たところも結構ありましたが、インド特有のうざったさみたいなものはありませんでした。


簡単にスリランカの印象を並べていくと、


バスや車がクラクションをならしまくっています。
たまにしつこいトゥクトゥクドライバーやお店の店員に捕まりますが、押しに負けさえしなければ痛い目に遭うことはないと思われます。
カレーベースのご飯が美味しく、紅茶の味は世界一だと思います。
国民の多くが仏教徒で、人に優しくするという考えが根付いているように感じました。
特にワークキャンプでお世話になった村の人たちは自分のことより僕たちのことを常に気にかけてくれ、別れのときには寂しいと言って泣いてくれました。


パッとスリランカと言って思いついたのがこのようなものです。


続いて僕がスリランカに来て驚いたことを書いていきます。

 


1つ目はリゾート地、スリランカということです。


スリランカと聞いてリゾートだと思う人はあまり多くないと思うのですが、北海道よりも小さな島国ということでビーチがたくさんあります。
僕は日程の都合上、ネゴンボのビーチに少しだけ行っただけなのですが、そのビーチの近くには観光客向けのオシャレな店がたくさんありました。


日本人にとっては穴場のリゾート地としてスリランカに行ってみるのも良いのではと思いました。

 


2つ目は風景が素晴らしいことです。


事前知識なくスリランカに行ったということもありますが、この小さな島国にはたくさんの壮大な景色が広がっています。
シギリアロックばかりが取り上げられますが、他にもたくさんの息をのむような岩山があります。


期待していなかったところに突如出てくることもしばしばありました。


岩山だけではなく、紅茶農園も綺麗でした。
事前予約をしていなかったので、列車から見える美しい紅茶農園を見ることはできなかったのですが、世界一の紅茶大国であるスリランカでは、綺麗に並ぶ紅茶農園を見ることができます。


スリランカでは、期待していなかった場所に期待以上の美しい風景を見ることができました。


この2つが僕が驚いたことであり、スリランカをオススメしたいところです。


インドはうざそうで嫌だ、

東南アジアとは少し変わった雰囲気を味わいたい、

優しい人が集まる国がいい、

そして観光だけではなくアクティブに遊びたい、

という方にピッタリの国“スリランカ”でした。

 

6/30 記

僕がブログに写真を載せない理由

こんにちは!


なおとです。


僕のブログを読んでくださる方の中には、写真が見たいと思ってくれる方も若干名いるのではないかなと思っています。


僕が写真を載せない理由は載せ方が分からないからでも、面倒くさいからでもありません。
あえて、載せない選択をしています。


その理由とは…


ブログでは写真に頼らず、言葉でどこまで表現できるのか挑戦したいからです。


最近ではSNS(特にInstagram)の普及により、自分のことを表現する手段として言葉よりも写真を使われることが多くなってきました。


実際僕もInstagramのアカウントを持っていて投稿することがありますが、写真中心なので大したことを書くこともなければ、それに興味を示す人もいないと思います。
それ自体は決して悪いことではないと思うのですが、それに頼りすぎると言葉での表現方法が下手になるのではないかなと思うようになりました。


僕がある絶景を見たとすると、それを言葉で表すよりもスマホで写真を撮って加工した方が見ている人には簡単に伝わります。
時には写真が実物を上回ることもあります。


僕はこの写真至上主義があまり好きではありません。


その人特有の個性は写真よりも言葉の方が目立ちます。
そして深みもあります。


僕の理想は写真を見せながらも、しっかり自分の言葉で表現し伝えていくことです。


その理想のために僕はあえてこのブログでは写真を載せずに言葉のみで頑張っています。


伝わりにくいところ、理解しにくいところは多々あると思いますが、僕の思いを汲み取っていただけると幸いです。

 

 

もしブログだけでは面白くない、僕の撮った写真が見たいという方がいらっしゃればこちらにURLを載せておくので覗いてみてください。

http://instagram.com/tvxq7010

 

6/30 記

 

幸せな国ブータン

こんにちは!

なおとです。

現在スリランカからクアラルンプールを経由してバンコクに来ています。
そして明朝、バンコクからブータンへ飛び立ちます。

ブータンに行ったことあるという方はそれほど多くないのではないかなと思います。
しかし興味があるという人は多いはずです。

それはなぜか?

数年前にブータン国王が来日し、GNH(国民総幸福量) という考え方が多くの日本人に知られたからです。

僕もその1人で世界一周するプランにブータンを入れようと思っていました。

しかし、ブータンに行きたいと思って調べた方はご存知だと思いますが、ブータンという国は簡単に行くことができません。
なぜなら個人的に行くことができません。
旅行会社を介してのみブータンを訪れることができます。
さらに公定料金というものをブータン政府に払わなければならず、1泊200ドルもするのです。

僕が調べたところ、日本からのツアーを組むと30万円ほどかかってしまいます。
これを見たときに僕はブータンに行くことを諦めました。

しかし、知人にブータンに行ったことがあるという方を紹介していただき、現地のガイドと連絡を取ることができました。
少しだけ安く費用を抑えることができました。

僕の世界一周の中で最もリッチな旅になることは間違いありませんが…
そんなわけでこれからブータンに向かいます。


ブータンに関する僕の疑問が3つあります。


1つ目はブータン人が考える幸せと日本人が考える幸せにどのような違いがあるのかです。

同じ日本人の中でも人によって幸せの形は違いますが、GDP(国内総生産)よりもGNHを提唱するブータンでは何を持って幸せを感じるのか気になっています。


2つ目は数年前にブータンが世界一幸せな国として取り上げられましたが、昨年は8位でした。

ちなみに1位はデンマークでした。
日本は90位でした。

2005年の国勢調査では国民の97%が幸せだと答えたそうですが、それ以来少しずつその割合が減ってきていると聞きました。
若者の失業率など雇用問題が大きく影響しているというニュースを見ましたが、他にも理由があるのか気になっています。


3つ目はGDPとGNHとの関係です。
これに一番興味があります。

僕は経済学のマクロ経済学のゼミに入っています。
マクロ経済学とは一国の経済活動を分析する学問です。
経済成長や景気循環について学んでいます。

2016年度のデータでは
日本の経済成長率は1.2%
ブータンの経済成長率は5.2%です。
自分は今成長しているなと感じるのときに幸せだなと思うのと同様に、国も経済成長率が高ければ国民も幸福度も上がっていきます。
経済成長率やGDPを無視してGNHについて語るのは本質的な議論ができないと思います。

だからこそブータンの人々は経済についてどう考えているのか聞いてきたいと思います。
現在多くの国では経済成長が最優先されるなか、経済成長ではなく、幸福というものにこだわるブータンが気になっています。

費用の関係上、短い滞在期間でありツアーなのでどこまでブータンのことを知ることができるか分かりませんが、しっかり自分の目でみてきたいなと思います。

最後にブータンに関してもう一つ。

タイのバンコクからブータンのパロ空港へ飛行機で移動するのですが、このパロ空港が世界一なのです。

何が世界一なのかというと、離着陸の難しさです。

空港の周りは世界でも有数の高い山脈に囲まれ、滑走路が他の空港に比べて短いらしいです。
パロ空港に離着陸できるパイロットは世界でも10数人しかいないという噂もあります。

正直、少しびびってます。

僕が無事ブータンに着陸、そして離陸後できることを祈っていただけると嬉しいです。

6/28 記

俺にはできない

こんにちは!


なおとです。

 

『俺(私)にはできない』

 

って思うことってよくありませんか?


毎日生きていると、意識せずにこう感じることってたくさんあると思います。


大谷翔平が軽々ライトスタンドに特大ホームランを放ったとき
・圧倒的な歌唱力とパフォーマンスで観客を魅了する東方神起のLIVEに行ったとき
・英語はおろか3.4ヶ国語を流暢に話すトリリンガルの人に出会ったとき
・自分はいくら説明されても理解できない数学の問題を平然とした顔で解いていく友達を見たとき
・ダイエットと言って目の前にある自分の好きな食べ物を腹を空かせながらも我慢する人がいるとき


小さなことから大きなことまで『俺にはできない』と思うことは本当にたくさんあります。


僕はこの『俺にはできない』と思ったときの気持ちについて考えてみました。


純粋に僕の能力が足りていないからという理由で『俺にはできない』と思うことはいったいどれくらいあるのでしょうか?
きっとそれほど多くはないのではないなと思います。


憧れ、悔しさ、恥ずかしさ、強がり、諦め、嫌悪感、苦しみ、哀れみなどの気持ちが奥に隠されていることが大半なのではないかなと思います。
他人にはもちろん、自分自身の中でもこの感情を隠して自己肯定しようとするが故に、この事実に気付きにくいのかもしれません。


このような経験はありませんか?


自分が好きな異性がいますが、なかなか話しかけることができずに仲良くなれません。
しかし自分の親友は自然に自分の好きな異性と会話をしています。
お互い特に気を使うこともなく、名前で呼び合ったりしています。
こんなとき、同じように名前でその人のことを呼べるかと言われると『俺(私)にはできない』と思ってしまいます。


ここには能力的な問題は一切関係ないと思います。


その人への恥ずかしさがあったり、親友への憧れや嫌悪感があったり、自分自身への強がりや諦めがあったりします。


自分自身の弱さ、他人の良さなどに改めて気付くことができます。


本当に純粋にそう思ったのか、
自分を正当化しようとしているのか、
友達がただ羨ましいだけなのか、
挑戦することを避けて負けないようにしているのか、
前に出ることを恐れて目立たないようにしているのか、
徐々に分かってくると思います。


例をあげればキリがありませんが、『俺(私)にはできない』と思ったことを冷静に分析すると自分が自分自身で隠していたことが分かるかもしれません。


ふとこの考えが浮かんできたとき、少し立ち止まってなぜ『俺(私)にはできない』と思ったのか考えてみてください。


きっと、新しい自分に考えに出会えると思います。

 

6/28 記

ワークキャンプ(スリランカ編)

こんにちは!


なおとです。


スリランカでは二週間ワークキャンプをしていました。


空港を朝の8時頃に出て、バスの乗り換えなどもあり、ボランティアをさせてもらう村に着いたのは午後5時頃でした。
良くも悪くもスリランカに来た実感のない場所でした。


今回のワークキャンプメンバーは前回とは違い、しっかり各国から集まった8名の国際ボランティアらしいものでした。
ヨーロッパとアジアだけだったのですが、これまであまり外国人と関わっていなかった僕にとっては新鮮な環境でした。


ワークキャンプの内容を簡単に説明すると、村の方々の農業者をお手伝いすることがメインでした。
日本なら機械でやってしまうような基礎的なことや虫嫌いな僕ですがいちいち気にしていられないほどの虫達に触れるなど僕にとっては新しい経験でした。

 


僕はこのメンバーと生活する上で2つの苦しさを感じていました。


1つ目は、やはり言語の壁です。

 

飛び交う英語の会話に全く理解できずにおいていかれることこともしばしばありました。
1対1での会話では分からなかったその都度、聞き返すことはできるのですが、大勢で会話が始まると、スピードにも内容にもついていくことができず苦痛な時間でした。
酷い英語力というのは前々から分かっていましたが、改めて現実を突きつけられた日々でした。


2つ目は価値観の違いです。

 

ヨーロッパのメンバー達は好奇心が旺盛でした。
何をするにしてもバンバン質問が飛び交い、全ての話に興味深々といった様子でした。
休暇日に観光をしていても、あれもこれも行きたいと言い、早朝から夜遅くまで観光しました。
これに腹が立つことが何度かありました。
好奇心が旺盛なことは素晴らしいことだと思うのですが、悪く言えば自分中心の考え方なんだと思いました。
自分の行きたいこと、やりたいことを最優先するのですが、おそらく悪気もなければこれが当たり前なのだと思いますが、空気を読んだ言動をして欲しかったです。


この言動と価値観という多くの人がぶち当たる壁にぶつかって、国際ボランティアらしかったなと思いました。


そんなワークキャンプでしたが、楽しい面もありました。


何より僕が末っ子だということもあり、たくさん可愛がってもらえました。


そして僕のメンバー間での立ち位置が日本で仲の良い友達と一緒にいるときと同じような場所でした。


相手が誰であろうが、自分の心地の良い立ち位置、楽だと思える立ち位置は変わらないんだなと思いました。
初対面で特に国際も違えば、気を使ったり自分の性格を押し殺してしまいがちですが、自分の心地の良い立ち位置につけるように仲良くなっていくことが大切だなと感じました。


今後どの環境にいても、このことを忘れずに自分の居場所を探していきたいです。


この二週間のワークキャンプはあっという間に終わりました。


前回のミャンマーワークキャンプに比べてやることが多かったり、メンバーが多く暇を持て余すことが少なかったからかなと思います。


人は朝、目覚めたときにやるべきことがあり、それを誰かと共有できることで充実した日々を送ることができるのだと思います。

 

6/27 記

 

小さな心と大きな心

こんにちは!

 

なおとです。

 

先日、スリランカでもっとも有名な観光地だと思われる世界遺産シギリアロック”に行ってきました。

 

名前を知らなくても、写真を見れば「あぁーなんか知ってるわ」となると思います。

 

そのシギリアロックを見た僕の感想は…

 

 

『でっかい岩だなぁ。どうやってこんな岩ができたんだろう。日本にはないなぁ。海外に来た実感がする。』

 

このような感想を持ちました。

 

正直に言うと、シギリアロックを見た瞬間、写真で見たそれと同じだなと思いました。

 

確かに圧倒されるような大きさ、自然に囲まれた中にそびえ立つ壮大さなどは外国ならではの風景かもしれません。

 

しかし、遙々異国から30ドルも払ってまで、全ての人におすすめするかというと、僕はしません。

 

昨年はカンボジアアンコールワット、インドのタージマハルを見ました。

 

Googleの画像検索で見たそれの遙か上をいくことはありませんでした。

だいたい画像を見て予想していた通りでした。

 

僕は何かを見て感動しにくいのかもしれません。

 

「多くの人が興奮して大げさな表現をしているのか、それとも僕がただ冷めているだけなのか…」

 

シギリアロックを前にしてこのようなことを考えていました。

そして一つの考えが頭に浮かんできました。

 

別に日々生きていて全く心を揺さぶれるようなことがないわけではありません。

 

小さな感動はたくさんあります。

 

 

夕日が綺麗だなと思い、電車の窓からずっと眺めて幸せな気分になる。

吉野家の牛すき鍋膳が値段以上に美味しく感じられて幸せな気分になる。

友だちに内面や外見のことをお世辞にでも褒められると嬉しくなって幸せな気分なる。

決して目立ちはしないありふれた桜の木に心を揺さぶられ幸せな気分になる。

 

 

大きなことをすれば大きな感動を、

有名なところに行けば大きな感動を、

評判のいいものを食べれば大きな感動を、

と思いがちになってしまいがちですが、

 

 

自分の近くにあるありふれたものの中にたくさん感動が散りばめられているんだと思います。

 

他の人にとっては何とも思わない極々一般的で、何の取り柄もないものも見る人によってかけがえのないものや時間になるものです。

 

今後、世界一周をする上でたくさんの観光地や世界遺産を見ることなると思います。

 

 

もちろん、僕の心を揺さぶれるようなものに出会えれば幸せだなと思いますが、

それよりも、他人から見れば違いも分からないような小さなところに自分の感動や幸せを見つけていければいいなと思います。

 

6/25 記

 

 

 

 

死ぬことが怖い

こんにちは!


なおとです。


タイトルを見ると僕がとても病んでいるのではと思われるかもしれませんが、そういう意味ではありません。


みなさんは死ぬことが怖いですか?


僕は怖いです。


小学五年生の頃には、寝ようとベッドに入った途端、死について考えてしまい怖くなり寝れない日々がありました。


何が怖いのと聞かれると説明するのが難しいですが

『記憶がなくなること、僕の存在がこの世になくなること、まだやり残したことがたくさあること』

などが浮かんできます。

 


なぜ今回この話題について書こうと思ったかというと、ワークキャンプ先のリーダーとこの話をしたからです。

 

そのリーダーは死ぬことが怖くないそうです。


確かに年齢は50に近く、僕より様々な経験をたくさんしていますし、やり残したことが僕に比べれば少ないかもしれません。


それにしても死が怖くないというのは驚きです。
今すぐに死ぬとしても怖くないのかと聞くと、それも怖くないとのことです。


理由はその人の考え方にあります。


大きな理由は仏教を信仰していることにあると思います。


仏教のことはこれまでにたくさん勉強して、神様も信じ続けてきた。そして人のために善い行いをして、悪いことはほとんどしていない。思いつくのはゴキブリを殺したことくらいだ。なので、もし僕が死んでも来世は必ず良い環境に生まれることができる。今ある記憶も忘れることはない。」
このように話してくれました。


僕はとても驚きました。


彼は決して口だけで言っているのではありません。


今日は少しの間、自由時間がありました。


彼に何をするのかと聞くと、池にいる鯉に餌をやると答えました。
この池がある都市に来る度にパンを買って鯉に餌をやっているそうです。


そしてその餌をやっているときに発展途上国でよく見かける物乞いをしている人が彼に話しかけました。
すると彼は何の躊躇もなく、幾ばくのお金を差し出しました。


さらに、その数分後彼の元にお腹が空いたと言ってきた男性がいました。
バスの時間も迫っており時間のない中、彼は走って弁当を買いに行きその男性に渡しました。


物乞いをしている人に対して、どういう対応すべきかという議論はここでは置いておき、僕は彼の行動に圧倒されました。


彼の行動は全く見返りを求めないものです。
これが彼の言う善い行いなのだと思いました。


彼はこのようにも言ってました。
「何かを貸したり、あげたりしたときに決して何かが返ってくることを期待してはいけない。」


彼の断固とした死ぬことへの怖れのなさは徹底した自分との向き合いがあるのだと思いました。


もちろん、彼は仏教を信仰していますので、神様を信じて向き合っています。


しかし、僕はその中には自分との向き合いもあり、それを続けてきたからこそ、今の彼の考え方があるのだなと思いました。


“死”という多くの人が怖れるものに対して、本当の意味で向き合えているからこそ怖さを感じないのかもしれません。

 


“死”を考えることは“今”を生きることであり、“自分”に向き合うことだなと思いました。

 


いつか尽き果てるこの命を大切にしたいと強く思います。

 

6/20 記