何から学ぶ

こんにちは!


なおとです。


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」
オットービスマルクの有名な言葉です。


ビスマルクは「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。」と言ったのですが、時代の経て短くなったようです。


僕は大学に入ってばかりの頃はあらゆる経験こそが大切だと思い、知識を入れることを嫌がっていました。


単純に経験の方が楽しく、その経験をすることで充実感や達成感のようなものを手にすることができます。


一方、歴史から学ぶ(知識をいれていく)ことは地味で面白味がなく、すぐに役にたつことはほぼありません。


しかし、大学二年生になり読書をする量が増えたときにこう思いました。


「知識もないのに、自分の経験だけで考えたり、行動したり、はんだんすることは危険だ」


さらに、大学一年生の一年間を振り返ったとき経験から学ぶこともたくさんありましたが、薄いなと思うことがありました。


もう少し具体的にいうと、ある経験直後に感じた学びの大きさとしばらく時が経ってから振り返ってみたときの学びの大きさに違いがありました。


皆さんも感じることがあると思うのですが、
先生や先輩の話を聞いたり、講演会に行った帰り道ではすごく感銘を受けて『とても良い話が聞けた』と思っているのに、一ヶ月後にはほとんど忘れてしまっている。


僕はよくあります。
そうならないように毎日、日記を付けているのですが…


一方、読書をするようになって、自分自身のすぐには忘れない学びが増えたよう思います。


ご存知の通り、本にはたくさんの人の成功例と失敗例がたくさん載っています。


本来ならば会えないような自分からは遠い人、全く自分と違った価値観を持つ人など自分の足では辿り着けないところに行くことができます。


読書の最大のメリットはここにあると思います。


続いて、経験に頼りすぎて起こってしまうデメリットを2つ書いていきます。


一つ目は、非効率だということです。


自分で言うのもなのですが、僕の世界一周見聞録にはそれほど価値はありません。


僕が海外で見たこと、感じたことは既に誰かが発信してます。
インターネットのおかげで一般の人でも情報を発進できるようになった今、世界一周したところで新しい情報なんてほぼ見つかりません。


僕の世界一周見聞録はたくさん感じることがある中でも僕が何を感じたかを書いているだけのものです。


情報を得るなら自分の足で世界一周せずとも、ネットや本で充分ですし、そちらの方がプロが書いたものもあるので深い情報が得られます。


このように経験から全てのことを学ぼうとするのはあまりにも非効率です。


二つ目は経験は人を感情的にするということです。


本などを用いて歴史や知識を学ぶのに対して、経験から何かを得ると冷静な判断がしにくくなります。


例えば、ある国に数日間だけ行っただけでその国のことを分かった気になったりします。


“貧富の差が激しい、街の成長が著しい、この地域の特産品はこれだ”など確かにあっている場合もありますが、季節や地域によっても違いますし、現地の人から聞いたといっても聞く人によって言うことが違うのはよくあることです。


自分の経験だけで物事を考えて、判断してしまうことは非常に危険です。


特に法律や文化、宗教などについて勉強することなく、自分の経験だけで善悪を判断するのは恐ろしい事態を招きかねません。
長い歴史があり、その時々で変化もしてきたものにはそれなりの理由があるのです。


とても良い経験をするとどうしても舞い上がってしまいがちですが、冷静になって考えてみることが大切だと思います。


ここまで経験に対してネガティブなことを書いてきましたが、もちろん経験が無駄だと思っているわけではありません。


ただ特に学生の間は派手な経験に対して、地味な知識を疎かにしてしまいがちになる傾向があると思います。

 

僕は何も意識せず過ごしていると経験の方へ逃げてしまうので、知識の方が大切なんだというくらいの心持ちで日々を過ごしています。

 

6/19 記

男女差別をなくすために

こんにちは!


なおとです。


今回は男女差別について書こうと思います。


男女差別を減らす、なくすためにどうすればいいのか僕の考えを紹介します。

 


端的にいうと、男女差別をなくすためには男女差別を主張しないことだと思います。 

 


詳しく説明していくと、現在の日本では憲法や法律、会社や学校でのルールの中で明らかに男女差別を示すような文言は少ないです。


男女差別の多くは決められたルール上ではなく、実社会において結果的に差別状態にあります。

 


例えば夫婦別姓の問題です。


法律上ではあるカップルが婚姻した場合、どちらかの姓を選ぶ必要があります。


しかし、現在の日本では95%以上のカップルが男性の姓を選んでいます。
ここに男女の差があるのは明らかです。


これに対して夫婦別姓という解決手段があります。
夫婦別姓の実現に対してたくさんの声が挙げられるなか、未だに実現していません。


一つ大きな理由として、この夫婦別姓の問題を男女差別として捉えていることがあげられると思います。


夫婦別姓を認めない側からすると、法律上どちらの姓を選んでもいいといっているのに対して、自分たちの意志で男性の姓を選んでいるだけで強制はしていないと反論することができます。


時代の流れとともに法律なども変えられていきますが、やはり法律を変えるには実情を訴えるだけではなく理論が必要です。


夫婦別姓を実現するためには、男女差別を持ち出すのではなく、婚姻届を出したカップルと事実婚にあるカップルとの不平等を訴えた方が、理論的には反論が難しいと思います。


姓は法律上どちらを選んでもいい自由があるのに対して、自分の意志で選んでいるじゃないかと反論されてしまいますが、婚姻の自由がある中で事実婚を選んだ際に婚姻届を出したカップルとの間に格差が生まれこれるのでおかしいとした方が良いと僕は思います。


憲法や法律は感情によって動かされるものでも、動かされるべきものでもありません。


ゆえにこの場合は男女差別とは違った視点で訴えることが重要だと考えます。


このように男女差別を是正するために男女差別を持ち出さないという考え方は一つ大切な見方だと思います。

 


もう一つ男女差別という言葉を持ち出さない方がいいと思う点があります。


それは今この日本社会は男社会だからです。


残念ながらこれは紛れもない事実だと思います。


各界のトップに立つ人物は男性であることが多く、その人が何事にも強い決定権を持っています。


そんな男性に対して、ここは男女差別だからルールや考え方を変えてくれと言っても積極的になってくれる可能性はそれほど高くないと思います。


男社会で勝ち上がってきた人にとっては男社会のままの方が生きやすいはずです。


ここでも男女差別を訴えるのではなく、ある女性を登用することへのメリットや男性だけで物事を進めていくデメリットを論理的に伝えていくべきだと思います。


世の中にある男女差別に目をつけてそれを是正しようとすると、どうしても感情的になりやすくなります。


しかし、何かを変えるとき、特に法律や昔からあるルールを変えるときには感情よりも理論が必要になります。


そのルールがあるのには理由があり、これまでそのルールの中でやってきているのです。
それに立ち向かうには、おかしいと思う点を的確に指摘し、論理的に説明することが大切です。

 


男女差別をなくすために、男女差別という概念から一度離れて考えてみるという見方をみなさんはどう思いますか?

 

6/15 記

 

僕の居住地は。

こんにちは!


なおとです。


海外に来てもうすぐ1ヶ月が経ち、いろいろ考えさせられることがあります。
そのうちの自分でも予想していなかったことについて書いていきたいと思います。


世界一周をして各国を旅しているといっても、日本でも北海道と東京では全く景色も風土も変わるように、1つの都市しか行かずにその国のことなんて少ししか分かりません。


それでも“この街”について考えることがあります。


空港の関係で、これまでに行った国は全て首都や有名な都市を訪問しています。


同時にワークキャンプのおかげで、首都から遠く離れた村にも来ることができています。


そして僕は日本と比較してみます。


日本は東京を中心に各地方に大きな都市(札幌、仙台、大阪、名古屋、福岡など)があります。
またその都市を中心にたくさんの市や町、村があります。


外国でも日本のそれと同じように地域が構成されていますが、海外の人と会話をしていると、日本ではそれぞれの都市に強い個性があるように思います。


僕はこのことを誇らしく思っています。
しかし、近年東京一極集中化が進み地方の衰退が加速しています。


東京に全てのものが集まる理由は仕事だと僕は思います。
地方に東京と同じ仕事さえあれば、これほどまでに東京に何もかも集まることはありません。

 

それぞれの地方に個性豊かな、魅力のある場所があるにも関わらず、自分の生活や将来のことを考えるとやはり東京にでざるを得ない状況です。

 


僕の理想は「東北であれば仙台を、北陸であれば金沢を、関西であれば大阪を中心にさらに個性豊かな地方が作られていく」ことです。

 


僕は海外に来て、なぜか東京に全てのものが集まる日本が悲しくなりました。


外国人では日本の地方に興味を持っている人が多いですし、僕も会話をしていると自然と地方の自慢話になっていたりします。


この1ヶ月の間に、将来は東京ではなく地方に住みたいなという思いが出てきました。


そのためにはやはり仕事がネックになると思います。
僕は現在、具体的にこれがやりたいという職業はありませんが、イメージ的には東京でこそやりがいがあるような仕事に興味があります。


地方でその夢を叶えながら住むには自分で稼ぐ方法を見つけないといけないなという気持ちになります。


「地方に住みながらもしっかり自分の力で稼ぐこと」と「東京の一極化が止まり地方が盛り上がること」は僕の夢でもあります。


現実的にもしもこれが可能であるならばそれはインターネットの力しかないと僕は思っています。

 


みなさんの考えを教えていただけると嬉しいです。


6/14 記

 

その経験に価値はあるか

こんにちは!


なおとです。


いきなりですが、みなさんは自分の経験を抽象化していますか?


もう少し簡単に言うと、「自分が体験したことや学んだことを言葉にして表現していますか?」


この経験を抽象化することの難しさや大切さを大学生になってから教わりました。


自分のした経験を人に伝えることができて初めて世間という枠組みの中で役に立ちます。


自分の経験が全て世間の役に立つ必要はないのではという考えもありますが、僕の基本的な考え方は自分の経験は世間の役に立つべきものだと思っています。 


そんな考えに基づいて今回のブログを書いていきます。

 


僕は昨年の11月頃からほぼ毎日日記を書いています。
ブログも最近始めました。
その他にも日々の経験や学び、自分が感じたことを文字に起こすことがよくあります。


そんな日々の中で常々思うことがあります。


「自分の経験したことを言語化すると全然頭の中で想像していたものと違うし、これじゃあ自分の伝えたいことが全く伝えられていない。」


文章を書くたびに感じます。
話すことが好きな僕は書くこともそれほど苦ではありません。


しかし、しんどいなと思うことや煩わしいなと感じることはよくあります。


文章を書くためには、その瞬間だけではなく、生活していく上で常に経験を言語化することを厭わずにやらなければなりません。


今何をして、何を感じて、どうしてそう思ったのかなど頭の中で整理し続けなければなりません。


何を考えず、夜になったからさぁ日記を書こうではただの一日の出来事を記したイベント日記に過ぎません。


僕はそんな日記を書いているつもりはなく(結果的にそうなってしまっている日もある)、今日あったことに対して自分の考えや想いを書く日記を作っています。


自分の考えや想いは言語化されて初めて意味を持ちます。
自分の頭の中では分かっているけれど表現できないというのは、本当は分かっていません。


言語があるから思考することができます。
つまり、言語化できないというのとは思考が不十分だということです。


僕が日記に自分の考えや想いを書いているのは自分の思考を深めるためのトレーニングです。
言語化することによって、自分が本当にどのくらい考えられているのか確かめることができます。


ブログでは、自分だけではなく他社に発信することによって新たな視点を与えてもらえるかもしれないと思って始めました。


日記やブログを振り返ってみると、本当に難しいなと思うことが多いです。


僕のゼミの先生から以下の言葉を教えていただきました。


「経験に対して言語は常に過剰であり、常に不足している。」 


ここに経験を言語化することの難しさがあると思います。


それと同時に言語の面白さも感じます。


ある2人が全く同じ経験をしても、それを表現すれば全然異なるものが得られるかもしれません。
それはその経験に対しての思考が異なるからです。


前述したように言語があってこそ思考ができるので、言語の使い方によって経験の抽象化のされ方が違うのです。


本当に言語は奥深いなと思います。

 


少し話を変えます。


世の中には言語化することによって、その経験が浅いものになってしまうこともあると思います。
時には言語化せずに単に感じることが尊いこともあると思います。


この“言語化せずに感じる”を必要とするときは家族や恋人、友達などの親しい間柄に発生する気遣いや思いやりといった愛があるときだと思います。


そこには言葉では表しきれない、目では見えない、耳では聞こえない大切なものがあります。


ただ僕の基本的な考え方は経験は抽象化され、世間に役に立ってこそ意味があると思っているので、常に言語化することを厭わずにやっていくつもりです。


その中で本当に大切なものに出会ったときに言葉ではないところで信じ合うことができればいいなと思います。


最後に…

最近書くことが増えた僕の書くことに関する感想です。

 

書くことで考えは深まっていく。
言語化をすることを辞めれば、思考も止まる。

 

6/11 記

 

なおと世界見聞録(マレーシア編)

こんにちは!


なおとです。


三泊三日(そのうち一泊は空港泊)のマレーシアの旅行も終わり、現在次の国スリランカに着きました。


マレーシアの首都、クアラルンプールに3日間滞在していたのですが、本当に住みやすい都市だなと思いました。


一言で表すと、ほぼ日本です。


日系企業はたくさんあり、これまでの国では見かけなかった無印良品ダイソーなどなど見つけました。
そして大きなショッピングモールが至る所にあります。
道路は綺麗に整備されていて電車やバスなどの空通網も整っています。
よくアジアの国で見かけるゴミがそこらじゅうに捨ててあるということもありませんでした。


これまで訪れた国で最も日本に近かったです。


ヤンゴンから飛行機に乗ってクアラルンプール空港に着いたのですが、そのときの僕の格好がとても浮いていました。


ビーチサンダル、タイパンツ、パジャマみたいなTシャツ、片手に麦わら帽子。


東京でそんな人を見かけないようにクアラルンプールにもそんな人はいませんでした。
少し恥ずかしくなり、ゲストハウスからどこかに出かけるときは、日本から持ってきた長ズボンとスニーカーを履いて観光してました。


日本の都市と比べてどこが違うかと聞かれても答えに困るほど、クアラルンプールは発展していました。


違いとしてぱっと思いつくのはイスラム教徒が多く、身体を布で覆っている女性が多かったことくらいです。 


そんなクアラルンプール、最大の魅力的は物価です。


ご飯を食べるにしても、200ー300円あればお腹いっぱい食べれます。
電車の初乗り料金も約30円です。
1時間バスに乗っても80円ほどです。


日常生活をしていくだけなら日本と同じような生活ができて出費は1/2~1/3に抑えられそうです。


もし今海外移住するならと聞かれれば、迷わずマレーシアと答えます。


そんなマレーシアのもう1つの武器はなんと言ってもクアラルンプール国際空港です。


アジアを空路で旅すれば気づくと思いますが、アジアでのハブ空港としての役割が強く、どこの都市にいくにしてもまずはクアラルンプール国際空港へ乗り継ぎをします。
僕もスリランカの後、次の国に行くためにまたクアラルンプール国際空港に戻ります。


マレーシアは東南アジアの中でも、シンガポールに次いで頭一つ抜け出した、そんな雰囲気のある国でした。


先進国の仲間入りをする日も近いかもしれません。

 

6/8 記

子どもたちを見て思ったこと

こんにちは!


なおとです。


ミャンマーワークキャンプではたくさんの子どもたちと関わる機会がありました。


この村での子供の割合が多いということ、言葉が話せなくても仲良くなれてしまうことの2つがあり、僕個人としても子どもたちと触れあう時間は楽しかったです。


子どもたちといると言語を覚えやすいというのは本当だなとも思いました。


大人とは違い、子どもたちは僕に根気強く(悪くいえば、しつこく)ミャンマーの言語を教えてくれました。


一度に複数人から話しかけられることもしばしば…
プライベートな時間がなくて子どもたちのしつこさに、何度かキレそうになりながらも多くの時間をともに共有して楽しみました。


そんな子どもたちを見て思ったことがありました。


思った以上に元気な子が多く、肌も手も歯も綺麗だったということです。
井戸水しかなく、24時間周りに虫が飛んでいて、みんな裸足で森や沼へと入っていくような環境で過ごしているとは思えませんでした。


僕は終始、お腹が痛くなったり、どこかが腫れたり、体に菌が入らないかなと心配していました。
子どもたちは生まれたときからこの生活をしているので、もちろんそんなことは考えません。


僕はこう考えました。


日本ではあれがダメ、これがダメと言われすぎて、子どもたちの成長を妨げているかもしれない。


僕がこのワークキャンプ中最も楽しかったことは、フットボールです。


このフットボールの何がおもしろかったかというと、コートのコンディションです。
スコールが止んだ直後にフットボールをやり始めたので、コートは完全な湖状態です。
もともとそのコートも畑なので、一面ガタガタしたぬかるみです。
もちろん、そんな状態でまともにフットボールができるはずなどなく、走れば転倒、ボールを蹴れば転倒、歩いているだけでも転倒するときがありました。
泥水が服にかかるだけでなく、容赦なく、口や目にも入ってきます。
僕としてはこのクレイジーさが楽しくて、無駄にスライディングをしまくっていました。
幼少期、水溜まりで遊んだ頃の思い出が蘇ってきて本当に楽しかったです。


今の日本ではどうでしょうか?


特に東京などの都市部で、子どもたちが水溜まりで遊んでいる姿を見れるでしょうか?
たいていの場合、親や先生に止めるように止められています。


汚いとか、周りの目とか諸々の理由でやめさせざるを得ないのです。
子どもの好奇心を潰してしまう可能性もあります。


他にも、
賞味期限の切れたものは食べさせない。
綺麗な場所にしか行かない。
頭のトレーニングも兼ねたような遊びばかりをさせる。
服を汚くして帰ってきたときに叱る。
下品なテレビを見せない。
教育上良くないと思った情報を与えない。


などなど子どものためを思った親の行動がありますが、時には成長を妨げることにもなると思います。


日本では考えられないような劣悪な環境で育っても、僕より肌も手も歯も綺麗な子どもはたくさんいます。


下品なものや社会の負の部分を見せなくても、いつか子どもはそれを知ります。
結果的に体が弱くなったり、アレルギーを持ったり、潔癖症になったり、自分とは違う変わった人を受け入れられなくなったりするのではないかなと思いました。


言葉としては悪いですが、基本的な考え方として、『子どもは飯を食べて寝てくそさえしてれば、勝手に大きくなって立派になる』と思います。


子どもの成長についても考えさせられる村での生活でした。

 

6/7 記

 

ハプニング2

こんにちは!


なおとです。


マレーシア最終日、飛行機の時間は午後九時出発なので、朝からクアラルンプール郊外のモスクを観光しようと思っていました。


ブルーモスク、正式名称はスルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・シャー・モスクに行こうと前日から計画していました。


電車やバスを乗り継いで行く方が安いので、前日に下準備をして午前9時頃の出発を考えていました。


しかし、まさかの寝坊。
起きたときに時計を見るとまさかの11時過ぎ。
行くのを辞めようかなとも思いましたが、12時にチェックアウトした後、特にやることもなかったので、急いでブルーモスクに行くことにしました。


電車は簡単に乗り継いで、バス停のある駅に到着しました。
ここでまた新たな事件発生。
バス運賃が3リンギットなのですが、手持ち金は5リンギット以上のお札しかなく、運転手にはお釣りが出せないから崩してこいと言われました。
始発のバスだったので、待っててくれるのかと思って、崩しにいくとそのバスはその直後に出発しました。
30分に1本しかないので、それからまた30分待つことになってしまいました。


この時点で、寝坊と運賃のせいで既に三時間半ほど予定より遅くなっています。


バスは予定通り1時間弱でブルーモスク周辺のバス停に到着しました。
しかし、ブルーモスクまでの道に少し迷ってしまい、遠回りしてしまいました。
ブルーモスクを目の前に「よし、30分程度見て帰るぞ!」と思っていたそのときです。


横にあった建物から一人の男性が登場。
ブルーモスクに行く前にこっちに寄れとのこと。
時間がないというとすぐ終わるからと言われ、半ば強引に連れて行かれました。
そこで何をしたかというと、イスラム教の説明をしてくれました。
勧誘というわけではなく、単なる説明だったので時間があれば是非聞いてみたかったのですが、時間のない、そして英語が理解できない僕にとっては少し辛かったです。
結局一時間ほどイスラム教のことを教えてもらったり、聖書みたいなものをもらいました。


本来ならばこの時点でバスになるべき時間です。
しかし、ここまで来てブルーモスクの中に入らないのは悔しかったので、少しだけ見て帰ろうとしました。


そして靴を脱いでモスクに入ろうとした瞬間、まさかの日本語を話せる無料ガイドと日本から来ていた日本人観光客に遭遇。
ガイドが30分で終わると言ったのですが、僕にそんな時間はありません。
15分ならということで、モスクを案内してもらいました。 


本当に必須の部分だけを見て、足早にモスクを後にしてバス停へ向かいました。
バス停でバスを待っている間、ここで待ってていのか分からない、飛行機に間に合わなかったらどうしようという焦りに駆られすごく不安でした。


10分程度でバスは来て乗ることができました。
しかし、夕方の帰宅ラッシュということもあり交通渋滞がひどく予定より30分ほど到着が遅れてしまいました。


それから大急ぎで電車に乗り換え、ゲストハウスに荷物を取りに帰らなければなりません。


その後バッグを持って電車に乗ろうするも、満員電車のため乗れず3本も見送る羽目になりました。
時間にして45分のロスです。


詰めればもう少し乗れるはずなのに、既に電車に乗ってる乗客もこれから乗る乗客も乗る気がないとまで思えるマイペースです。
いよいよ本気で焦ってきました。
4本目では、現地の人たちに嫌な顔をされながらも思いっきり押し込んで電車に乗り込みました。


バスに乗り換えて空港に行く予定だったのですが、それでは絶対に間に合わないので、5倍くらい高いエクスプレス電車に乗ることにしました。


空港に着いたのはチェックイン受付終了時間7分前、チェックインカウンターに着いたのはチェックイン受付終了時間3分前でした。


本当に危機一髪でした。


飛行機に乗れたから笑い話ですが、間に合っていなければ前回のハプニングに匹敵する絶望感だったかもしれません。


やはりギリギリはよくないですね。
いつも全てのことがギリギリになってしまうこの性格を治さないといけないなと思うのですが、なかなか治らないです。
空港で暇つぶすくらいがちょうどいいんだと思います。


これからはもうこのようなことがないようにしたいと強く強く思っています。


猛省します。

 

6/7 記